女流茶人 堀越宗円

折角の三連休ですが台風の到来で家に閉じこもり、録画の映画を観たり読書をしたりの毎日です。茶道雑誌の「なごみ」に堀越宗円(1892〜1978)さんを中心とした女流茶人の茶の湯を特集しています。先生の日々のお話の中で堀越さんの話題をお聞きしますが、それは素晴らしい茶人で会った由。少しお話しさせてください。


近代の女流茶人では屈指の存在です。高級官僚松方正義公爵の五女に生まれ優雅な暮らしぶりは想像できますが、礼儀作法から拭き掃除まで厳しく躾けられたようです。20歳の頃堀越角次郎と結婚し、病弱な夫を持ち前の気丈さと小事にとらわれない江戸っ子気質で助けつつ、茶の湯に深く関わっていきます。
書道、竹細工、日本画、そして長唄など芸事全般にチャレンジし自作の茶道具や掛物を残しています。日本画伊東深水などに師事しておりました。絵心は帯にも表れ自筆のものがあります。
宗円が大きく茶人に成長したのは、千利休以来の大茶人と称された益田鈍翁に孫のように可愛がられたからでしょう。宗円も益田のお祖父様と親しんでいました。茶人であり数寄者の鈍翁より茶道具の目利き・茶人の心など大いに教わったことと思います。裏千家十四代淡々齋の近門になり、蕾会を創設し茶の湯を教えました。昭和28年に女性として初めて「老分」に任命されます。(老分は裏千家の重要役職で、各時代の財界人・文化人で、茶道に造詣の深い人物が歴任されます)。宗円の財力ばかりでなく茶人として信頼が寄せられた証ですね。
外国からのお客様も沢山茶室をお訪ねになっています。あるアメリカの作曲家が感想として「お茶はピアノを弾くのと同じ感じだ」と。宗円は常日頃そう思っていたのでとても嬉しかったそうです。つまりお点前の動きには一寸の無駄もないということが、ピアノを弾くのと同じで無駄のない動作なんです。その動作は流れるように進むのです。決して右から左にとつぜん行きません。
東京文京区の護国寺に宗円が寄進した茶室「艸雷庵(そうらいあん)}があります。普段は公開していないと思いますが訪ねてみようと思います。


茶の湯はそもそも僧侶や武士のたしなみとして歴史を刻んできました。一般に女子が茶の湯を習い始めたのは明治になってからといえます。NHK大河ドラマ「八重の桜」でも出てきましたが、京都に初めて女学校「女紅場」が開校し、3年後に跡見学校が開校され女子教育に茶の湯が本格的に導入されました。新島八重も近代女流茶人の一人です。新島襄亡き後、50歳を目前に裏千家に入門、十三代円能斎の教えを受けました。写真は昭和7年、亡くなる1ヶ月前の茶装の八重です。
戦後茶の湯は大いに浸透しますが、嫁入り前の「たしなみ」を習う程度に収まっています。宗円のように「たしなみ」を超える茶の湯、、、う〜んなかなか難しいけれども「平成の女流茶人」が出現すれば、また茶道にも新しい風がふくかもしれませんね。