黒楽茶碗 銘「本覚坊」

4月17日 日曜日明治記念館にて裏千家淡交会第46回東京地区大会茶会が開かれました。私どももお手伝いに参りました。当代お家元をお迎えしての茶会、関係者一同気合いと神経を使います。お家元はもちろん正客のお席に着かれますが、席主とのやりとりにお道具に関しての歴史、造詣の深さにさすがにと感じ入りました。
そうそうたるお道具が並びますが、特に私が興味を持ちましたのは、楽家初代長次郎の作であります 黒楽「本覚坊」。
銘のついた本覚坊は三井寺の僧であり、利休のおそばでお仕えした弟子のひとりです。その本覚坊の手になると思われる手記がありまして、井上靖さんが「本覚坊遺文」と題して小説にされました。この機会に再読いたしました。


利休といえば、やはり太閤秀吉より切腹を申し渡され、その理由が何なのか、一番に興味が持たれるところです。利休はなぜ申し開きもせずに自刃したのでしょう。一番おそばにお仕えした本覚坊であるなら、師利休の心境を聞き知っていたのではないかと、利休に関わるその他の弟子や茶人が尋ねますが、本覚坊にもそれは謎であるのです。利休は側近にも一言もその件は触れていないのです。
よく言われているように、大徳寺の三門に掲げられた利休像、道具を高値を付けて売ったことに緊縮をかったとか。そして申し開きをすれば、太閤も許したであろうに、又それを太閤も望んでいたであろうに。
師利休亡き後、本覚坊は三井寺にこもりほとんど外部との接触を断ち心静かに暮らしますが、ときおり親交のあった人々の茶会に招かれたり、お道具の見立てをしたり、茶室建設に関してアドバイスをしたりしていました。
織田有楽(織田信長の弟 茶人)もそのうちの1人。有楽による利休の自刃の解釈、それが一番真実に近いのではないかと本覚坊は思います。
「太閤さまはどのくらい利休の茶室に入っているかな。恐らく何十回、何百回。太閤さまは利休どのの茶室に入る度に死を賜っていたようなものだ。太刀は奪り上げられ、茶を飲まされ、茶碗に感心させられる。その度に殺されている。太閤さまだって一生のうち一度くらい、そうした相手に死を賜らせたくもなるであろう」
どこまでが本気で冗談なのか分からないと本覚坊は見当が付きません。

「利休どのはたくさんの武人の死に立ち会っている。どのくらいの武人が利休どのの点てる茶を飲んで合戦に向かい討死にしたことか。あれだけたくさんの非業の死に立ち会っていたら、義理にも畳の上では死ねぬであろう」

「利休どのは豪かった。自分ひとりの道を歩いた。自分一人の茶を点てた。遊びの茶を、遊びでないものにした。と言って、茶室を禅の道場にしたわけではない。腹を切る場所にした」

腹を切る場所にした……ただごとならぬ有楽の言葉、しかし本覚坊は不快な気持ちにはならないのです。どのような意味が含まれているか分からないけれど、師利休を傷つけたり蔑んだりしているところはないと思うのです。


本覚坊は死の半年ほど前に師利休より拝領した「茶碗と茶杓を使いの託して贈る」と覚え書きに記しています。その贈り先は侘数寄の再興者である千家三代の千宗旦と推定されます。
それでその長次郎の黒楽に「本覚坊」と銘が付けられたのでしょう。
井上靖さんは、この小説を書くために茶碗「本覚坊」の拝見を願ったと伝え聞きます。真摯なお気持ちで小説にされたことが伝わってきます。