再びの峩々温泉の肖像画


GWに宮城蔵王の峩々温泉で出会った肖像画に心打たれたお話しは書きましたが、それでその絵を描いた菅野 廉の生涯を書いた本があると聞き及び、早速読み進めました。
著者は玉田尊英(たまだたかひで)氏。字は細かいし読み切れるかと、そんでもって斜め読みのズルをしつつ、ようやく峩々温泉の三代目の肖像画のことを書かれているページに辿り着きました。









昭和50年の暮れ、仙台放送のTV番組「サンデートーク」に菅野廉は出演し(このとき菅野は86歳)、ホストの草柳大蔵さんと対談していまして、そこで峩々温泉三代目のおばあちゃんに触れています。対談を抜粋しますと、





草柳:蔵王をお描きになったのは戦後からですね。先生と蔵王の巡りあいというのは、どうだったんだろうか、お伺いしたいんですが…
菅野:私は仙台の生まれですから、とうに蔵王とは仲良くなっていなければならないはずですけれど、なにせ40年もワラジを履いて東京生活、帰ってまいりましたのが戦後ですからね。(中略、風景画で蔵王と取り組んでみたらとすすめられ、蔵王を描き始めることにふれています)
そのころは自動車で行ける蔵王ではなかったものですから、ふもとの峨々温泉、あそこのオセツさんというおばあちゃんに、だいぶお世話になりまして、よくそこを足場にして、蔵王の作品を発表するまでの、四・五年お世話になったでしょうか。

肖像画の三代目は竹内節さん。「峨々のお婆さん」は菅野の人物画の代表作のひとつになります。この絵を描いた場所はオセツさんの自宅の仏間。金庫の置かれたこの部屋はひっきりなしに人の出入りがあったそうですが、気にせず描き続けました。モデルのオセツばあちゃんは菅野より三つ年上、背筋を伸ばして生真面目にモデルを務めたそうです。この絵が完成した三年後、オセツばあちゃんは亡くなりました。
菅野にとっては蔵王への足場だっただけにこの絵に対する思い入れは強かったそうです。

また、この絵について東北大学総長を務めた加藤陸奥雄は『峩々温泉と私』の中の「峩々のお婆さん」という一文を寄せています。
昭和59年宮城県美術館で菅野廉の特集展示会が開催され、この肖像画を観て。

菅野さんは菅野さんに親しい人物や風景を画材とされたが、その人物像の中で「峩々のお婆さん」は出色もの。蔵王を愛した菅野さんは峩々のお婆さんにもずいぶんご厄介になられたにちがいない。この心がこの画にはいやというほどしみこんでいるように思えてならない。美術館でこの画に対したとき、私は何か電撃をうけたようにたちすくんでしまった。この画像は昭和23年の作、私が厄介になっていたころの竹内せつ婆さんである。やさしい眼差しで今にも話しかけられるような雰囲気を感じた。生き返ってこられた婆さんが眼の前におられる錯覚を覚え、暫くでした、ご無沙汰いたしまして、と心の中でつぶやいたことであった。


この肖像画を見たとき、私も電撃をうけました。もちろんお逢いしたことはないのですが、何か親しく包んでくださるようで、それがとても有り難く。
また、いつかオセツ婆ちゃんに会いに行けたらと思います。